井上康子先生のご紹介

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井上康子先生との出会い 遊香舎 森容子ごあいさつ

出会いが宝物に

長らく病院で検査に携わり、不調を抱えたさまざまな人と間近に接してきました。
そして健やかな生活には、人と人との触れ合いこそが不可欠であるとの想いを強く
していました。アロマテラピーを学び始め、精油の素晴らしさを実感していましたが、
同時に直接肌に触れるトリートメントの技術を習得したいとの気持ちが高まって
いました。

そんな時、ナードアロマテラピー協会認定のセラピストコースが開講されたことを
知りました。一大決心をし、直接受講したいと東京に出向き、そこで井上康子先生に
出会いました。講習では、人の心と体を大切に思いながら行うトリートメントが心地
よさを通して、体の恒常性と潜在的な治癒力を導き出すことを強調されていました。
‘同じ想いを持つ同志’に巡り合えた気がしましたし、互いの想いが響き合う瞬間を
幾度となく経験しました。
実年齢的に若いとは言えず、試験に際しての不安もありましたが、先生は「アロマ
セラピストは、全ての経験を活かせる職業。長い間してきた事―病院での仕事も、
主婦、育児の経験も、ご近所とのお付き合いも、その他いろいろしている事全て役に
立ちます」と断言されました。「ゆっくりと静かに話しをすることも、深く穏やかな
マッサージも、現実には誰にでもできるものではありません。あなたのような
セラピストを心待ちにされている方は大勢いらっしゃるはずです」と続けられました。
合格し、認定資格を得、これまで多くの方に施術させていただく機会に恵まれて
きました。今ではトリートメントをして差し上げることで自分が健康でいられることと
感じられ、生活の中の宝物になっています。

先生と私が想いを同じくする『優しさと温かさを根底においたトリートメント』を
身近な方へ広めて頂きたく、生徒さんを募り、年に1~2回、倉敷にてトリートメント入門講座を実施していただいております。 >>井上康子先生の講座のご案内

そしてこのたび、井上先生のお気持ちを表した『アロマごころ』をこのホームページに掲載させていただくことになりました。‘手’の温かさを、まずは言葉で感じていただければ幸いです。

アロマごごろ 井上 康子(いのうえ やすこ)

背中の真ん中

当たり前の事ですが、誰にも頼ること無く、全くの一人で生きている人は、
この世に存在しません。どれほど温暖であっても、平和であっても、どれだけ物質的に
豊かであっても、たった一人で生きていく事は、誰にもできません。

健康であったとしても一人きりでは生きてはいかれないのですから、精神的に
まいってしまったり、何かの症状に悩まされているとき、人が自分以外の人に助けを
求めるのは、当然の事です。そして、何らかの理由で、本来ならば自分でできることが
できない時、生きていくために、介護者が必要となります。

そのような状況になったとき、よく世間では、介護する側の大変さが強調されます。
しかしながら、介護する側のつらさは、介護される側、すなわち症状をもつ本人の
つらさには遥かに遠く及ばないと思います。もちろん、さまざまな状況があり、
日々延々とつらなる途方もない作業をたった一人で行い続けている介護者がいらっしゃることは事実です。それでも尚やはり、本人のつらさ・痛みを、私たちはもっともっと認識する必要があると考えます。

なぜなら、身体は一瞬たりとも本人以外の人が代わって差上げることはできないから
です。自分の一部を切り捨ててしまいたくなるような痛み、まとわりついてくるような
だるさ、逃れられないどうしようもない苦しさ、持っていき場のない悔しさ、
圧倒的な無念さ、迷惑をかけているという情けなさ、米粒にでもなってしまったような
寂しさ、といったさまざまな痛みを持つ自分という物体から、24時間ずっと、
1分1秒たりとも、片時も逃れられない……それが本人に突きつけられる
絶対的な事実です。

抱えている、逃れられない痛みゆえに、周囲に対して当たり前の応対すら出来なく
なるのも、致し方ないことと思われる場合もあります。「どんな姿でさえ、
生きて欲しい」と願い、時間の一切を捧げる介護者に対してさえ、気持ちとは
裏腹の行動をとってしまう場合も少なくありません。こころとからだの痛みは、
本人を本来とは違う姿に表出させてしまいます。

ところで、自分の手で自分のからだを触ってみると、大抵の箇所は、きちんと
触れることができます。手自体はもちろんの事、凝った肩も、冷えた足先も、
時にだるさを感じる腰も、お臍のあたりも、きちんと自分で労わることができます。
けれども、一箇所だけ、どうしても触れにくいところがあります。
それは、肩甲骨と肩甲骨の間あたり、背中の真ん中です。

本人の手が届きにくい、背中の真ん中は、たとえば、落ち込んでいる友人に
どのように言葉をかけていいかわからないときに、思わず無意識に動いてしまう手が
行き着く先でもあります。その手を置くために必要なことは、相手を大切に想う
気持ちだけで、それ以外に、何の技術も力も要りません。
もし、自分の心や身体に痛みが無いとしたら、誰しもができる簡単なことです。
それでも、手をあてがわれた側は、即座に温かさを感じ、心が安まっていくのを
感じます。そのくらい、人が人に求めている助けは案外簡単なことかもしれません。

少し離れて考えると簡単なことが、その人にとってはどうしてもできないことだったり、どういうわけか考えつかないことだったり。当たり前のにこやかさ、少しばかりの暖かさ、ちょっとしたひと言、そんな簡単なことを忘れずに、
着実に実行し続けることの大切さを感じることが多くなりました。継続こそ力なり。
‘背中の真ん中に少しずつ’を続けていく事で、僅かでも痛みが軽減し、歪みのない
本来の姿に出会える日が来ると信じ、実践しています。

遊香舎 アロマ談義

アロマセラピーとは、「心地よい実践」

不調の時こそ、精神的利益が必要

  • 最近は様々な代替療法が紹介されていますが、先生の考えるアロマセラピーとはどのような療法でしょうか?
  • 相手の立場に立ち、全体を考え、心地よさをもたらす実践と考えています。
  • くわしくお話いただけますか?
  • 一般に、心身の状態が思わしくなくなると、「病人なのだから」と、とかく我慢や無理を強いられがちです。型通りの質疑応答、食事その他の制限、苦い薬、辛い検査、痛い注射、しんどいリハビリ等々。気持ちの良いことなど、ほとんどありません。ですが、思うようにいかない時ほど、精神的な利益が必要です。
    方法や手段に関わらず、不調の改善は、最終的には本人自身が行うものですが、心地よいと感じることで努力しようという意欲が湧き、現実に実行できると思います。改善のプロセスそのものに、される側の心地よさや楽しさを実現することは、アロマセラピーの大きな理念的な特徴と言えます。
  • アロマセラピーは、一般に「芳香療法」と翻訳されています。日本語の場合、芳や香という漢字は悪い臭いを表しませんが、受け取る側が実際にいい香りと感じるということが、大切ということですね。
  • その通りです。Aromaという言葉自体がプラスイメージを内包していることを忘れてはいけません。ところが、いい香りであるか否かは、受け取る側の個人的な感覚に拠るところが大きく、厳密には、本人以外の人が当事者の主観を勝手に推し量ることはできません。
  • 実際にご本人に嗅いでいただくことは、欠かせませんよね。
  • ええ。ただ、実際に嗅ぐとしても、即座に心身が欲する香りを決めていただけるかというと、そうとは限りません。
  • そうですね。心身のバランスが悪いと、なかなか体の声に耳を傾けることができませんもの。不調ゆえに、自分自身を見失っているという方が、少なくないように感じています。

安心感が、自分を取り戻す助けに

  • 自分を取り戻すためには、ある程度のゆとりが必要です。そのゆとりをもたらすのが、‘心地よさ’であると考えます。主観による部分も大きいですが、どの方にも共通する‘心地よさ’を大切にすべきと思っています。
    たとえば、喫茶店で、何も言われずにガシャッと水の入ったコップを置かれたら、刺々しく感じます。また、度を越した慎重さと作り笑顔で出されても、居心地が悪いもの。その場に適した爽やかな丁寧さで、自然な笑顔とともに静かに差し出されると、「自分は受け入れられた」と安心できます。
  • 単にいい香りを提供するだけではなく、安心できる環境づくりが、アロマセラピーでは大切ということですね。
  • 広い意味でアロマセラピーを解釈し、何をするにも「心地よさ」を提供できているかを検証することが、質の向上につながると考えています。
    もちろん、その時のその方にとって適確な精油を選び、適確な方法を実践することがアロマセラピーの核となります。料理の出てこないレストランが、「レストラン」と言えないのと同様です。ただ、時と場合によっては、精油を使用できない、吸入もトリートメントも不可という事もあります。その場合でも、できるアロマセラピーがあるということ。その方の自然な姿を肯定的に見出し、優しく包み込むように接するという姿勢こそ、アロマセラピーの出発点であると考えます。

実践者は、自分の信念を持って

  • 私も、ただ精油を活用するだけではアロマセラピーとして成立しないと考えてきました。フィルムを撮影したからといって、「映画」にはなりませんものね。
  • そうそう、そうです。
    資格や知識は、入り口にしか過ぎないと思います。何のために、どのような理想を描いて行なっていくのかを考えないで実践しても意味がありません。せっかくの療法が、経済的に利用されるだけに終わってしまいます。
  • 精油が売れればいい、受講生がたくさんいればいいという姿勢ではいけないということですよね。
  • 経済的な利益は、活動を維持・継続していくためには欠かせません。また、利益がもたらされないとは、価値を認められないことに直結します。ですから、決して無視しては活動できません。
    しかしながら、さまざまな事象が複雑に絡み合っている現在、経済面だけではない苦境が突然襲ってくることもあります。そのようなときに、“ぶれない”ためにも、実践者は、どのようにアロマセラピーをとらえるべきかを自分なりに考えるべきと思います。
    一人ひとりが信念をもって実践してこそ、アロマセラピーが健康維持・増進の方法の1つの選択肢として、広く社会全体に定着していくと考えています。
  • 「自分が行うアロマセラピー」については、私も考えました。
  • 森さんのお考えは、ホームページの随所に反映されていますよね。特に、「心の響きあいをもとめて」という一行からだけでも森さんの想いが伝わってきますし、実践されたいことが読み取れます。遊香舎さんに来る前に、何が行われているかを想像することができます。

心のありようを守るアロマセラピー

  • 私は、身体的な健康も大事ですが、幸せは心の持ちようと思っています。
  • 心の持ち方ではなく、持ちようと言われる所に、森さんらしさを感じます。様子のようであり、内容、容子さんのようにも通じますものね。
  • アロマセラピーはよく、心とからだを二分しないホリスティックな療法と言われていますが、この点についてのお考えをお聞かせいただけますか?
  • 確かに、一人の人間の心と身体を切り離してはとらえられません。但し、二分されることもあるからこそ、分けられてきたのだと考えています。
    気の合う仲間と連れ立ってハイキングに行けば、気分爽快だけど、身体はどっと疲れるかも。そのままにしておけば、疲れが溜まり、気持ちに影響します。
    逆に、身体的に健康でも、誰かのひと言によって気持ちが突然落ち込み、それがきっかけで身体に変調をきたすこともあります。 心と身体をいきなり一緒にとらえるアプローチは難しいのではないでしょうか。 まずどの部分が一番助けをもとめているのかを理解して、働きかける。もしかしたら、言葉はうるさいだけで、優しい態度だけを待っているのかもしれないし。必要なのは、香りを伴うタッチングだったり、静かな空間だけだったり。
    先ほど森さんが言われたように、心のありようこそが、やはり大切で、心の中に痛みを抱えているなら、それを思いやり温かく接することが大切と思います。
  • 「アロマセラピーは対症療法ではない」と言われますが、私は、症状を考慮することはとても大事と考えています。
  • もちろんです。私たちは医療従事者ではないので、数値や画像を見ることも判断もできません。でも、「眠れない」「つらい」といったご本人が訴える症状に耳を傾けることはできます。特に、痛みは重要です。身体的な痛みや痒みは本当に辛く、ご本人にしかわからないものですが、‘痛いほどわかる’という言い方があるように、他人が気持ちだけでも寄り添うことは可能です。
    怒ったり、イライラしたりも、心の痛みからくるものとも思われます。痛みという症状の現れとして受け止めて差上げ、温かく接する。そのようにして、ご本人が抱える痛みがわずかでも軽減に向かうようお手伝いできればと考えます。

井上 康子

IFA <主任講師>
イギリスに本部を置く。1985年に世界で最初に設立された
国際アロマセラピスト協議会
アロマサイエンスアカデミー
<メディカルアロマケアスペシャリスト>
母と子の絆づくりを信念とする。産婦人科医 鮫島浩二先生が、
主宰するセラピスト養成機関
ナードジャパン
<アロマトレーナー> <アロマセラピストトレーナー>
ベルギーに本部を置く。
アロマテラピーに関する正しい知識の普及を図るため
認定校制度を策定した教育機関

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